出典:フリー百科事典「ウィキペディア」より引用
光 その1
上方から入ってきた光の道筋が、散乱によって見えている様子。(米国のアンテロープ・キャニオンにて)
光とは、基本的には、人間の目(視覚)を刺激して明るさを感じさせるもの(こと)のことである。
現代の自然科学の分野では、光を「可視光線」と、異なった名称で呼ぶことも行われている。つまり「光」は電磁波の一種と位置付けつつ説明されており、同分野では「光」という言葉で赤外線・紫外線まで含めて指していることも多い。
光は宗教や、哲学、自然科学、物理などの考察の対象とされている。
・宗教や哲学での説明
光は様々な思想や宗教において、超越的存在者の属性を示すものとされた。
古くから宗教に光は登場しており、より具体的には太陽と結びつけられることも多かった。古代エジプトの神、アメン・ラーなどはその一例である。
プラトンの有名な「洞窟の比喩」では、光の源である太陽と最高原理「善のイデア」とを結びつけている。
新プラトン主義では、光に強弱や濃淡があることから、世界の多様性を説明しようとしており、哲学と神秘主義が融合している。例えばプロティノスは「一者」「叡智(ヌース)」「魂」の3原理から世界を説明し、「一者」は、それ自体把握され得ないものであり光そのもの、「叡智(ヌース)」は「一者」を映し出しているものであり太陽であり、「魂」は「叡智」を受けて輝くもので月や星であるとし、光の比喩で世界の説明を論理化した。この新プラトン主義は魔術、ヘルメス主義、グノーシス主義にまで影響を及ぼした、とも言われている。
『新約聖書』ではイエスにより「私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ福音書 9:5)と語られる。またイエスは弟子と群集に対して「あなたたちは世の光である」(地の塩、世の光)と語る。ディオニュシオス・アレオパギテースにおいては、父なる神が光源であり、光がイエスであり、イエスは天上界のイデアを明かし、人々の魂を照らすのであり、光による照明が人に認識を与えるのだとされた。この思想はキリスト教世界の思想に様々な形で影響を与えた。
グノーシス主義では光と闇の二元的対立によって世界を説明した。
仏教では、光は、仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴するものとされる。
・自然科学の説明
光は波(波動)としての性質と、粒子としての性質を同時に併せ持っている。(後述)
また光は光源や観測者の速度にかかわらず「相対速度が変化しない」という特徴を持つ。光の速度を光速と言う。
・粒子説と波動説
「光は粒子なのか?それとも波なのか? 」この問題は20世紀前半まで、大きな問題として科学者たちを大いに悩ませた。なぜなら、光が波であるとしなければ説明できない現象(たとえば光の干渉、分光など)と、光が粒子であるとしなければ説明できない現象(たとえば光電効果など)が存在していたからである。
この問題は、20世紀に「量子力学」という分野が確立していく中でようやく解決することなった。不確定性原理によって生じた問題を説明するために1927年にニールス・ボーアが相補性という概念を提唱したことで解決した。一方を確定すると他方が不確定になるような2つの量というのは、互いに補い合いあうことにより対象の完全な記述が得られる、とする考え方である。
「光は粒子でもあり波でもある。粒子と波の両方の性質を併せ持つ、量子というものである」とされるようになり、「光は〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ」とも表現されるようになった。
近年では、光の粒子性に重点を置く場合は「光子」、波動性に重点を置く場合には「光波」、光が粒子と波の二面性を持った量子である、という点に重点をおく場合は「光量子(光子のこと)」と呼ぶ。
・光の粒子性
ニュートンによって、光は粒子だとする説が唱えられた(粒子説)。アインシュタインは光子の概念を提唱し、これは現在まで用いられている。
粒子(量子)としての光を光子(光量子)という。光子は電磁場の量子化によって現れる量子の1つで、電磁相互作用を媒介する。
E=hν- 光のエネルギーは振動数に比例する
p=h/λ- 光の運動量は波長λに反比例する
このため波長の小さいX線などにおいて、光の粒子性は特に顕著となる。
・光の波動性
光は波動として振る舞い反射・屈折・回折などの現象を起こす。
ヤングの実験(1805年)により光の波動説として証明され、その後マクスウェルらにより光波は電磁波であることが示された。厳密にはマクスウェルの方程式で記述されるベクトル波であり偏光を持つが、波動光学では簡略化のためにスカラー波として扱うことが多い。
波動としての光を光波と呼ぶ。
光のエネルギーは電場の振幅の2乗に比例する
光の運動量はポインティング・ベクトルに比例する