出典:フリー百科事典「ウィキペディア」より引用
ビッグバン その2
・歴史
20世紀初頭では天文学者も含めてほとんどの人々は宇宙は定常的なものだと考えていた。「宇宙には始まりがなければならない」などという考えを口にするような天文学者は皆無だった。ハッブルも、柔軟な考えを持っていると評価されているアインシュタインですらも、「宇宙に始まりがあった」などという考えはまるっきり馬鹿げていていると思っていた。科学者たちは膨張宇宙論は科学では理解しがたく、宗教上の立場だと見なしていた。
ビッグバン理論は、紆余曲折を経て、観測と理論の両面が揃ってようやく、徐々に認められるようになってきた歴史がある。
観測的には、多くの渦巻星雲が地球から遠ざかっていることが知られていたが、当初これらの観測を行った研究者たちはその宇宙論的な意味に気づかず、これらの星雲が実際に我々の天の川銀河の外にある銀河であるということが分からない状況にいた。
ジョルジュ・ルメートルは、「宇宙は原始的原子(primeval atom) の“爆発”から始まった」というモデルを提唱した。
1927年にベルギーの司祭で天文学者のジョルジュ・ルメートルが一般相対論のフリードマン・ロバートソン・ウォーカー計量に従う方程式を独自に導き出し、渦巻銀河が後退しているという観測結果に基づいて、「宇宙は原始的原子(primeval atom) の“爆発”から始まった」というモデルを提唱した。
1929年、エドウィン・ハッブルの観測で、彼は銀河が地球に対してあらゆる方向に遠ざかっており、その速度は地球から各銀河までの距離に比例していることを発見した(この事実は現在「ハッブルの法則」と呼ばれている。これが、ルメートルの「原始的原子(primeval atom) の“爆発”から始まった」とする理論に対して基礎付けを与えることになった。)
この時点でこの問題(ハッブルの観測結果を説明すること)に本気で立ち向かい科学的にとらえようという気になっている科学者は皆無だった。
その数少ない例外がロシア出身の天文・核物理学者ジョージ・ガモフであり、ジョルジュ・ルメートルが提唱したビッグバン理論を支持し発展させた。ガモフは、初期の宇宙は全てが圧縮され高密度だったうえに、超高温度だったとし、宇宙の膨張の始まりを、熱核爆弾の火の玉と捉え、創造の材料(陽子、中性子、電子、ガンマ放射線の高密度ガス。これらの材料をガモフは「イーレム」と呼んだ)が爆発の場で連鎖的に起きる核反応によって、現在の宇宙に見られる様々な元素に転移したのだ、と説明した。1940年代、ガモフとその共同研究者たちは、熱核反応によって創世が起きたとする説明の細部を詳細に描く論文をいくつも執筆した。だが、この説明図式がうまくゆかなかった。原子核のなかには非常に不安定なものがあり、再融合する前にバラバラになり、彼が求めていた、元素へと組成する連鎖が途中で途切れてしまうのだった。ガモフたちの研究や論文は無視され軽視されたままになり、研究チームは1940年代末に解散してしまい、チームメンバーでは科学を捨てる者もいた。ガモフも引退することになった。ただ、ガモフは大衆向けに科学や宇宙論の本を書いたりし、次世代に影響は与えた。
ハッブルの観測結果を説明するもうひとつの方法は、従来通りに「宇宙に始まりなどなく、定常である」とする説を採用することである。フレッド・ホイルは「宇宙に始まりがあった」という考えをとことん嫌い抜いていた。ホイルが1948年に出したモデルは「定常モデル」と呼ばれる。このモデルでは銀河が互いに遠ざかるに従って、あとに残った空間に新しい物質が現れ出て、それが固まることで新たな銀河を形成してゆくとし、これにより宇宙の物質密度が一定に保たれるとした。このモデルでは大まかに言えば、宇宙はいつでも同じように見えることになる。これは「宇宙は永遠で無限だから偉大なのだ」と考える科学者たちの心をつかんだ。おまけにホイルの説はビッグバン説よりエレガントだった。物理学者らはエレガント好きなのでそれを好んだ。ハッブルまで定常説が自然だと見なした。ルメートルの理論にビッグバン (Big Bang) という名前を付けたのはホイルで、1949年のBBC のラジオ番組 The Nature of Things の中で彼がルメートルのモデルを"this 'big bang' idea" とからかうように呼んだのが始まりであるとされている。ところでホイルは、定常モデルであってもライバルのビッグバン・モデルと同様に炭素・酸素・金・鉄・窒素・ウラン・鉛などの化学元素の起源を説明しなければならない、という問題に気づいた。ホイルは、時間の始まりに一発のビッグバンがあってそれが核反応炉の役割を果たしたとしなくても元素が創生されたと説明がつくことを示したくて、「星ではありとあらゆる核種変換が起こっている」と提唱した。そのため1953年にはカリフォルニア工科大学ケロッグ放射線研究所に赴いて、そこの所長のウィリー・ファウラーの協力で、泡箱を用いて原子核の衝突実験( 3個のヘリウムでできる炭素の原子核の性質を調べる実験)を成功させた。これにより炭素は星のなかで無尽蔵に作られる性質があることが判った。その後も彼ら2人を含めて数名が元素の歴史に迫り、論文に結実させた。だが、こうした論文は定常モデルに有利に働いたというよりむしろ、ハッブルの観測によって導かれた星の進化に関するアイディア群がより完成度を高めた、と一般には見なされた。
《ビッグバン VS 定常宇宙》論争では、ローマカトリックは早い段階で、どちらの陣営を支持するか態度を明らかにしていた。1951年に教皇ピウス12世はバチカン宮殿で会議を開き、「ビッグバンはカトリックの公式の教義に矛盾しない」との声明を発表した(とは言っても、これは純粋に科学的なことには、あまり関係のないことであった)これらの宇宙論に関する大きな論争が起きるたびに、新聞の読者たちは熱くなった。
1953年にハッブルが亡くなり、彼が計画した仕事(宇宙のサイズと運命を推算する仕事。当時、ウィルソン山天文台でなければできない仕事)を引き継がなければならなくなったアラン・サンディジ(Allan Sandage)という弟子がいた。当時20代半ばで、ようやく学位論文を仕上げたばかりだった。彼はルメートルの説を馬鹿げたものとは見なさず、これを「Creation Event (天地創造事件)」と呼んで探究した。サンディジは、膨張宇宙説を支えているのは1920~30年代に集められたいかにも頼りない証拠にすぎない、ということを意識しており、結局、どの説が正しいかを決定づけるのは彼がウィルソン山の天文台で少しずつ、だが系統的に日々集めている観測データであることを知っていた。
ところで、ロシアに核兵器関連の仕事をしつつ物理学者として成長し素粒子物理に関する論文を書いていたヤコブ・ゼルドビッチがいたが、彼は西側の科学者以上にビッグバン説について真剣に考えていて、宇宙を巨大な素粒子物理実験と見なすようになっていた。彼は宇宙の元素存在比の表を読み違えて計算したことにより、《熱いビッグバン》は間違いだと考え、《冷たいビッグバン》を長らく信じた。
しかしやがて、宇宙が高温高密度の状態から進化したというアイデアを支持する観測的な証拠が挙がってきた。1965年の宇宙マイクロ波背景放射の発見以降は、ビッグバン理論が宇宙の起源と進化を説明する最も良い理論であると考える人が多数派になった。
現在の科学者による宇宙論の研究はそのほとんど全てが基本的なビッグバン理論の拡張や改良を含むものである。現在行なわれているほとんどの宇宙論の研究には、ビッグバンの文脈で銀河がどのように作られたかを理解することや、ビッグバンの時点で何が起きたかを明らかにすること、観測結果を基本的な理論と整合させることなどが含まれている。
ビッグバン宇宙論の分野では1990年代の終わりから21世紀初めにかけて、望遠鏡技術の大発展とCOBE、ハッブル宇宙望遠鏡、WMAP といった衛星から得られた膨大な量の観測データとが相まって、非常に大きな進展が見られた。これらのデータによって、宇宙論研究者はビッグバン理論のパラメータを今までにない高い精度で計算することが可能になり、これによって宇宙が加速膨張しているらしいという予想外の発見がもたらされた。